2019 年 7 月 2 日 のアーカイブ

舞台いくつか

2019 年 7 月 2 日 火曜日

情報咀嚼の合間に

リハーサルもいくつか

じっとしているのに 頭が 忙しかったり

動いていた方が 頭は 休められたり

そんなことを思ってもおりました

7月は こぢんまり 舞台(「あ♪のねの会」での 保育所公演)と

15日(月) 能BOXでの ART23 第二回公演への パントマイム小品での 出演

20日(土) 戦災復興記念館で ジャズダンススタジオ グァテマラさんの ステージへの タップダンスと ちょいっ と パントマイムでの出演

そのひとときを 最高のものにするため

跳躍のための屈伸…的な 心身状態であります

改めて公演 告知もせねば

またのちほど

知らずにいた事 知ったものの責任

2019 年 7 月 2 日 火曜日

先週の 原発事故 八年目の福島 体験学習ツアー

まだ 咀嚼できぬ部分 多々あり

しかし 生々しい思いのうちに なんとか 少しでも 受け渡しておかねば と

じりじりしたり ひりひりしたりしながら

伝わる形を模索した その後の一週間でありまして

何人かのかたから「ずっと 福島に行ってたのですね?」てなことを 労われ

いやいや 行ったのは ほんの 1日 2日なのですよぅ と 応えること 何度かありましたる

それだけ この短い時間に あるまじき!?情報量の多さ 濃さでありました

よくぞ 組んでくださった 事務局の方々

企画側の立場に近いところにおったものの

わたくしがやったことといえば

この企画に 財団の 年間予算から 支援額を決める 全国総会のときに

最後の決め台詞「福島で会いましょう」を 叫んだだけ

お陰で(余計なことやらずに 出番が最後だけだったお陰で!?) 全国YWCA代表会員の方々の 投票によって 最高額の支援いただくことができて

結果 この 得難い 素晴らしいツアーが 実現したわけなのでした

何の尽力もせぬまんまではありましたけど

感無量

億劫がらず 参加して 本当によかった

喉元過ぎてしまっていた 痛み

今も 暮らし続ける人たちの 思い

受け取ったからには

これからも あきらめずに 橋渡して行きたい

届く形にして 手渡してゆかなければならない

知った者として

知らずにいてしまった者としての責任…

そんなことを思うのでした

遠隔技術開発

2019 年 7 月 2 日 火曜日

JAEA…正式名称は 国立研究開発法人 日本原子力研究開発機構 楢原遠隔技術開発センター

東京電力福島第一原子力発電所(1F)の 廃止措置や 災害対応等に 対応する 遠隔操作機器の 開発や 実証試験が行えるところ

一般の人たちにも開かれている 施設とのこと

事前相談と 利用申請のための 書類審査などを経て 利用可能なのでした

はじめに 研究管理棟での 概要説明の後

没入型バーチャルリアリティシステム(VR)で 福島第一の 原子炉建屋内 模擬空間体験

ちみっと 画面酔いしてしまった…とほほ

その後 試験棟に移動

実規模実証試験エリア…実際の 原子炉格納容器の試験体の設置された でかいでかい 建物のなかにはいる

要素試験エリアは ロボット試験用水槽 福島第一の 施設内のあらゆる階段の模擬(階段を移動するロボットの実証試験)

そして 高速度カメラのついた 飛行ロボット…ドローンの 操作と その 計測画面を 見た

最新技術の集結で 収束に 向かっているところ

高校生などの ロボコンなど だいぶ 盛り上がってるけれど

そういった若者たちの技術開発の支援も 行っているとか

しかし ことは進んでいないということ

再び 研究管理棟に戻っての 質疑応答にて

「いつ取り出しを行うのですか?」

「取り出しは可能ですか?」と 質問が飛び交う

取り出す現場には こちらの 技術開発に 携わった人ではなく 東京電力のなかの 技術者がおこなうので

管轄外 とのこと

センターにおられる方々は 国からの予算が出てはいるけれど

国家公務員ではなく

ましてや 東京電力社員でもないのだ

「技術の開発と 提供だけなのです」とのこと

そして 燃料デブリ 取り出しは「可能です」と きっぱりおっしゃるが

「しかし 取り出したあとの 処置について かなりの難題があるので…」と 複雑な表情でおられた

なんて 簡単にはいかぬことばかり 山積みなのだか!

でも その山を どうにかせねば と

のぼり

きりひらき

平らかにしてゆこうと 邁進なさる人たちがいる

これは 希望の光でもあるのだ

「来て 見て 知ってくださって ありがとうございます」

力強く 朗らかに 手を振って 見送っていただいた

こちらこそ ありがとうございます 頼みます!と

びゅんびゅんと 手を 振りかえした

家も 死ぬ

2019 年 7 月 2 日 火曜日

浪江町大平山霊園から 楢葉町 遠隔技術開発センターへ移動のバス(国道6号線 帰還困難地区)のなかで

引き続き 清水修二さんからの お話

帰還困難地区の除染は これから始まる

しかし 周りの除染が済んでも 人の住んでいなかった家は 住むことができなくなっているものが多い

家も「死ぬ」のだ

普段 住んでいる家では たいして掃除などせず 屋根のメンテナンスなどもしていなくても 住む形を 維持していてくれる

しかし 人が住まない建物は 誰踏まずとも 床が抜け 屋根が崩れ落ち 壁も 剥がれていく

そこへ 獣らが侵入もしたりして 崩壊へと 後押しする

帰宅できますよ といわれ

補助がなされたとしても

作り直そうという 気力財力のある人は そんなに おられるわけではない

年代もある

「帰りたいけど 若いものに任せる」と ことばを濁す そこで生まれ育って歳を重ねた人は 多い

解体しても その廃材は 汚染されたものとして 処分されずに 仮置かれる

かつて 原発の誘致で 沸いていた 浪江や小高には

当時の 町長さん(まつくらたかしさん 故人)が「多くの人が 原発を待っているかもしれないが 自分は 原発が安全なものかどうかがわからない わからないうちは 賛成しない」と 公言し

かなりの批判を受け

誘致に成功した土地をやっかんで「向こうには蔵がたって こっちは (貧乏なままで) 腹が立つ」という 揶揄が 流行したのだとか

町民への 啓蒙冊子は「間違ったことは書いてないが 大事なことは書いていない。放射能は危なくないとかいてあって そのあとすぐに 防護について書かれていたりして 実は 親切ではない」

双葉町に入って 道端の 放射線量 表示板 0.767μsv

大熊町 2.014μsv

「廃炉工事雇用はあるけれど 人工ゼロのまちです」

「富岡も 人が戻って来てはいるけれど お墓を守れなくて お寺が廃業に追い込まれています」

「ウクライナでは 内部被爆対策を しっかりやっていますが 福島では 外部被爆対策が先行しているようです。内外合わせたものが妥当なのですけどねぇ…」

被爆に関しての 健康手帳を配る話があるものの

福島以外に 避難しているかたのなかには 福島から来た と 未だに 口にしたくないから そういうものは「いらない」と いっているかたもおられるとのこと

「ここは 田んぼだったのですよ」という 藪を見る

「ここいらの 除染は これからなのです」かつての住まいの 崩れ落ちそうな 屋根を見る

何をどこからどうしたら うまくいくのだろう

しかし 手に負えん と 手放すことはできない とも 思う

あまりの 課題難題の多さに

次の見学現場に到着するまでに

あたまうしろのところが 煮え煮えに 熱くなった

しかし 笑店街として 住みよいまちとして 考え抜かれた ニュータウン建設をも 見る

不安の上に 建てられているとしても

前を向いている人たちがいる

浪江町大平山

2019 年 7 月 2 日 火曜日

24日(月)

浪江町大平山霊園へ

ゆく道々

除染 解体 建設…

作業をしておられる方々あり

帰還困難地区を ゆくゆく 帰還可能にするため

しかし 手付かずのところのほうが 多い

すぐに帰れるだろう…と 無造作に 停めたような 車

人のいた 暮らしの気配が 草ぐさに 呑み込まれている

バリケードは その場所の 持ち主さえも 立ち入ることを許さない

「途方もない」という ことば ばかりが 浮かぶ

小高い霊園の すぐ先

「あれは 津波で打ち上げられた 瓦礫なのです」と 指差された

八年手付かずのところ

その先には 震災遺構になる予定の 小学校

せめてもの救いは その学校は 当時の校長先生が 地震があったらまず小高いところへ避難して戻らないこと…を 徹底していて 速やかなる 避難行動ができて

当日の 津波の 被害で亡くなった お子達はいなかったということ

しかし 大人たちは それまでの 地震による 津波が ほんのわずかの 高さでしかなかったから…と たかをくくってしまっていた

家の様子を見に戻って 津波に呑まれた方々

津波だけではなく

見えない波…放射能にも 呑まれたため

救助や 捜索隊は しばらく立ち入ることはなかったあたり

「まだ 見つかってないかたは…」

数字は よく聞きとれなかった

でも数は問題ではない

「わたくしの 親戚も そういう亡くなりかたをしまして…」

さらりと おっしゃる…決して さらりとした内容ではない

取り返しのつかないことが あったということ

更に 上乗せされているということ

ただ ただ 手を合わせた