小浜センパイの
しっかりと ご自身を生きて 感じて 表して
次へ繋いで行かれる日々
同性婚を 求める訴訟においても 発信し続けてくださってます
法律の庇護のもとに 安穏といられて
生きづらさを持った方々への想像力欠如のものたちが
同性婚周辺のことについて
やれ「家族の絆が~」とか
「少子化の問題が~」とか
「いきもの人間としての あり方が~」とかいって
今生きて そこここにおられる存在を 踏み潰す発言をし続けているのが
いやだ
いぢわるだ と思う
歴史がどうこういうなら
かつての昔々の日本の方が おおらかだったのと違うか?
そんなことを思いながら
「伴侶」として より深く広くはぐくまれてゆかれる 小浜センパイを 応援し続けたい
↓↓↓↓↓
パートナーの入院後、毎日面会に行っています。日々状況が変わるので、お休みいただいている方面の皆さんには感謝に堪えません。
同性婚を求めているからと言って、出会いのはじめから「伴侶」としての自分がいるわけでもない。この間の経験はそれを感じさせるものです。
救急搬送の時には、「パートナーです」に対して「同意書書けますか?」と問われる。病院では次々に軽いもの重いもの取り混ぜて同意書にサインする。都度都度続柄に「パートナー」と書く。彼のいのちを預かる覚悟は既にあったものの、改めてそれが問われる局面が訪れます。
異性間で結婚する人は、はじめからこういう覚悟を自覚して結婚するかしら?と考えました。「死が二人を分つまで」の意味は、こうした経験を経て理解できて、さらに深く「伴侶」となる。たくさんの局面で伴侶であることを「言外に」問われ、覚悟を決めていく。そんなふうではないかしら?と考えたりします。
結婚できないことは、「期待されない」関係の中、自らの意志で成長させていく必要がある。そう考えると、自分たちのかけがえなさを選んできたことに誇りを感じつつ、否応なく関係性が成長していく前提を「奪われて」いて、厳しい現実の中で裸の自分の意志で、常に選択を迫られる。
行動してから、周囲の助けを得てさらに進み、それが自信につながり、関係性が深まる。そうしてかけがえのない「自分たち」ができていく。実はそんな社会にいてそれが享受できなきゃ、尊重されてる実感は持てないよね。
改めて家事審判を闘おうと思うし、続けられるようにと願います。
https://www.call4.jp/info.php?type=items&id=I0000134&fbclid=IwY2xjawJBnRtleHRuA2FlbQIxMQABHYXDGlUcc-02n9dDzHH1lUZx9FNX-zJ11cjqHhOT5aYGQbhnDnuHU0raSA_aem_7J4Evfd1q2TTa_2Sq4310g
最近のコメント