2010 年 1 月 4 日 のアーカイブ

夢をつけてた頃

2010 年 1 月 4 日 月曜日

二十年位前かな
一時期 心理学だとか 精神分析だとか 哲学だとか
心の 曖昧さを どうにか すっきりわかるようにできないもんか・・・と 
探ってたあたりに 行き会った本たちの中に あったのが「夢分析」という本
ユング派のあたりの 外国の人が書いたやつだった。
今思えば 外国の文化とは違うのだから、まんま当てはまるモンでもなかったのだろうけれど
裏の裏にはこんな意味があるのだろか?なんて 危険なくらい 真剣にやってみてた。
結構はまりました・・・あまり 素人が 下手にはまっちゃ危険なのにね。
夢に引きずられるぞ、とか 現実との境界が曖昧になるぞ なんておどしもありましたな。
河合隼雄さんが「表現活動をすること自体が 自己分析のようなものなのだから、表現活動をしていこうというのであれば、分析のための分析はやめたほうがいい」と いうようなこと おっしゃったのをきいて それもそうかも・・・と やめちまいました はは 単純。
夢をせっせとノートにつけて 本と照らし合わせたり
創作に利用できないかと 話膨らませてみようと再構成したり・・・ほとんどが愚にもつかぬものでしたっけ。
ただ、中で 印象深かったのは
鉛筆とかとがったものは 男性を現す象徴的なもの・・・なんて 言われてますが
ある時 見た夢~炬燵にあたっていたら 母から「鉛筆貸して」といわれて 筆入れを開けたら
二本の鉛筆が入ってはいたけど、どっちも芯が折れてて
さてどっちを 選んだものか・・・なんて 悩んでる~なんてな内容。
その頃 実は 二人の男性について どちらを選んだものか・・・なんて 緩く迷っていた時期。
いや 求婚されてたとか そんなんぢゃなく いい感じの人がいて、
どちらかを 「好きだ」と 意識的に選んだほうがいいのかなぁ?なんて 程度の 緩いモンでして、
それだからこそ 炬燵にあたっている風景での 選択逡巡つうことだったのではないか?なんて思った。
炬燵の無い 外国ではできない分析であろうよ・・・なんて いい気にもなってみましたが、
前述の河合さんの 言葉だけでなく、
結局そんな分析したところで、それがどうした・・・と言う気持、
夢をいじくる前に 現実に手にしている 気持の断片を見つめたり 向き合わないでどうすんだ?という気持の方が 大きくなったので、もう しなくなっちゃいました。