‘東北関東大震災(東日本大震災)’ カテゴリーのアーカイブ

「女川原発本当に再稼働していいの?」第一回目

2021 年 2 月 28 日 日曜日

昨日は 仙台YWCAにての 企画「女川原発本当に再稼働していいの?」の 第一回目 終了いたしましたる

ランダムに ご招待 お送りしてしまった方々

それでも「興味あり」と 反応してくださったかた

ありがとうございます

「ファシリテータ」て なんだべ!?と

人々が疑問に思える ぐずぐずしきり(仕切ってない)もりあやこでしたが

みなさまの熱意と

まっすぐな眼差しに 支えられ

河合弘之監督さんの ユーモアに 満ちた 分かりやすいお話に 勇気付けられ

得難いひととき

zoom含めて 約40名の方々に 参加していただくことができました

「ここでみたりきいたりしたことを誰かと話して伝えてください」という 監督の言葉

胸に染み込みました

第二回は 3月13日

一回目と ごっちゃになって 混乱するかと思い

そちらのご紹介を 延ばし延ばしておりました
また後ほど改めて

個人のページにても 感謝の最敬礼 投稿させていただきましたる

福島フォーラムへ!

2021 年 2 月 23 日 火曜日

本日 出掛ける予定だったあんちゃ

前の晩に 何時に出掛ける予定なのか とか 確認したら

やらなくちゃいけないこともあるし「出掛けないことにした」とな

その瞬間

んだらば わたくし出掛けたい!よいかな!?と 言ってしまった

「えっ?ど~ぞ~」なんて 軽く言ってくれたから

その場ですぐ ネット予約

福島フォーラム『サマショール ~遺言 第六章~ 』

夜 父の もぞもぞ落ち着かなさもあって

若干 寝不足ぎみではあったのだけど

出掛けたい時間の寸前に 父の うんこさんもお出まして

ちみっと それが ゆるめで 心配がないわけではなかったけど

今日 行かないと 今しばらく 巡り会えない!と

えいやっ!と 出掛けた

満席(ひとつおきに空けて座ってるけど)

のっけから 画面がにじむ

一昨年 お話聞かせていただいた 飯舘村の方々も 出ておられる

今週末 仙台YWCAに来ていただく 河合弘之さん(弁護士であり『日本と原発 4年後』の監督でもある)も 登場してた?

いきなり もぎ取られる それまでの暮らし

終わることができない 原発事故後のこと

「隠し伝えない」国のやり方を 越えて

正しく知って

その上で 選びとって行けるようになればいい

「放射能が効く前に 死んでしまうからもういいんだけど」

「こどもたちを すくう 守ってゆくのは 大人の役目だから」という おんちゃんたちの ことば

今もそこで暮らしながら

記録し続けること

その記録を伝えること

諦め 忘れ 受け流してはいけない大事なこと

改めて 受けとる

共同監督の お一人 豊田さんと お話しすることができた

宮城でもやっていただけるよう 動きます!とか 大それたこといっちゃったけど

やるよ

動くよ

仙台フォーラムへの リクエストだけでなく

また何らかの形で…ね

お名刺 いただいたのに

お渡しできるもの なんもなくて…ていったら

ひっぽの元気な味噌の 未弧ちゃんの おともだちで…とか言ったからか

そこにあった 「ひっぽの元気な味噌」パンフレット つまんで

「んじゃこれに 連絡先 書いてください」なんていわれて

書いちゃったよ

すまぬ 未弧ちゃん!

アフタートークで 豊田さんと共に お話ししてくださった 「モニ爺」さん こと 伊藤延由さんのお話も いいなぁ

宮城県 ただのお隣さんで 遠い土地のはなしとか

過去の話とか 思ってちゃいかんのよぅ

蛸あきらめ

2021 年 2 月 14 日 日曜日

とあるいきさつから

今夜は 蛸を肴に 日本酒だぁ♪なんて 浮かれた気持ちでいたのだけど

諸事情にて 家から一歩も出ず

買ってあった食材にて 天婦羅

21時半くらいには 頂き物の ワインで 酒気帯びて

ふわん て 寝入ってた

電灯つけっぱなし

…したらば

びょうっびょうっびょうっ!てな音(地震警報)

ずぅろずぅろずぅろ と 畳が 揺れる

んんんんん

大きめ

すぐおさまらない

立ち上がって 横の父ベッドをみる

目をぱちくりしてる 父

電灯が 大きく振れて ちらちらしてる

酸素マシーンの 警告は 出ない

停電にはならないでくれろ と 願いつつ

隣の部屋で「こわいよぅ はやぐうっ(来てくれ)!」と 甘えた声出す 母の布団 すぽぽぽぽん!と 叩いて

だいじょぶだっ こごさいっから!(ここにいるから)と

何が 大丈夫かわからんけど 言ってみる

仔っこ猫らが わらわらわら と 足元に集まってくる

そうだ 牛太郎 わたくしの部屋にいたのではないか?一番危険なとこ…避難しててくれろ と 二階にあがると

案の定 本の雪崩

あんちゃの部屋 二階廊下 わたくしの部屋

どこから飛び出してきたかわからないようなものまで 散乱してた

少し片付けてたら

あんちゃが「牛 茶の間のとこから 帰ってきたよ」と
報告あり

ほっ

心配メールやら メッセンジャーに 返信してたら

ご近所さん(区長さん?)が 無事確認に訪ねてきてくださったと あんちゃから

ありがたいな

心強いな

余震続いてる

たいていの地震では どきどきもしないけど

今夜は どきどきした

本の雪崩くらいで 済んでよかった

車のガソリン 半分くらいだったかな?

十年目 なんて あまり 節目的なこと 考えすぎたくない と 思いつつ

喉元過ぎさせてしまってること ありすぎるな と 反省などもしつつ

念のため 風呂や バケツに 水を汲んでおく

停電なし 断水なし 通信切断なしでよかった

珈琲カップ トリップ

2020 年 5 月 26 日 火曜日

今朝のカップは yonda?クラブ

20年近く前に

新潮文庫で やってた キャンペーンの キャラクターもの

ブックカバーの かどっこにあった マークを切り取って 貼って 送って

商品をもらうシステム

あんちゃが 緑のと この ベージュのとを 入手して

くれたのだったな

自分が使うわけではないのに 商品をもらう…ての

昔からだ

ちょっと前には 春雨スープポイントで ミッフィーランチバッグ三~四枚 手にいれて ちちははわたくしに 配ったりしてたし

そういう熱情

愉快だけど

塩分過剰摂取になってるなぁ と

心配してしまう 余計なおせわさま いもうと わたくし

…ま それはさておき

緑は 珈琲に

ベージュは 紅茶などに 用いていたものの

いつしか 別のカップを 普段使いするようになり

戸棚の 奥の方に 仕舞いっぱなしになってた

思いの外 重たくて

でも 馴染み深い 重みで

あぁ 久しぶり 元気だった?て

熱く 重たい 青春の日々 共に 過ごした クラスメートに 再会して 一瞬で 時間が 戻ったみたいな感じ

…なんだそりゃ!?

そういや わたくしは カップではなくて

文豪時計を 入手したのだったな

あれは yonda?クラブじゃなかったのかな?

カフカと太宰治だったか

すぐ使えなくなって

時間を見るよりも 飾っていたのだった

震災で 部屋がめちゃくちゃごしゃめしゃになったとき

飾ってたところから どこか別の箱かなんかに入れた気がする

震災後の 三ヶ月 ほとんど 自室に 戻らなかったと 思いきや

その間に すこぅし 大事なものとか なにかを 整理したらしい

それを どこに どうやったかの記憶がない

記憶の 不確かさに 驚愕したりもしたっけな

いつか 記憶のひきだし 開けられるかな?

混沌自室を 探索して

記憶を 繙いてゆく楽しみは

これから まだまだ 尽きないてことだ

いやはや

珈琲カップから あちこちトリップして

あっという間の 朝のひととき

本日は お寝坊 母を

そろそろ 起こそうか

暮らし続けること…茂さんの投稿より

2020 年 4 月 20 日 月曜日

そこで暮らし続けること
そのために
受けとること
許してはいないこと
それぞれにあって
ちゃんと 伝わればいいと思う

↓↓↓↓↓

先日、読売新聞の取材があった。ドリアンさんの『線量計と奥の細道』に載ったボクの現状を聞きたいというのでお受けして、娘と記者さんと3人、1時間弱話をした。どれだけ伝わったかわからないが、話したいと思って予めまとめておいた内容は以下の通りだ。記事にはまったく載らなかったけど…。

「今一番訴えたいことは、原発の再稼働と新規建設の停止です。いったん事あればどうなるか?ということを福島の姿から学んで欲しいということです。

事故前、私は基本的にこの自宅の周囲10(遠くても30)キロ圏内の自然からどれくらい自給できるかを意識して暮らして来ました。川魚・山菜・キノコ・木の実・自然素材、畑でとれるもの、いつどこで何をどのように?
自然というのは知れば知るほど実りが返ってきます。そして、そこには自分の生活を自分で組み立てている自信と自然に対する一種の信仰が生まれるのです。
それを根本から崩したのが原発事故でした。

今、自然からとってきたものや畑で作った作物を以前のように東京の友人たちに送る気にはなりません。作物に対する自信というのは、環境に対する信頼がなければ出てこないからです。
自分自身が除染後の今でも0.2μSv前後という放射線がある畑で芯から寛げないのに、以前のように友人を呼んで畑で宴会という気分にはなりません。

福島の農林水産物に対する信頼の欠如は、個々の産物に対する不信よりも、それを生み出す福島の自然に対する不信が根本にあるのではないかと思います。だから、これは風評被害ではなく、原発事故が福島の自然に与えた実害なのです。『こんなに安全なデータなのに』といくら言い募っても、それを払拭するのは難しい。事故の収束と徹底した環境復元を図るより他にない、そう思うのです。

子どもが福島に帰って来たことは素直に嬉しいことです。農業やると言ってるわけでもないし、インドア派でもあるし、それほど心配もしていません。むしろ今回転職して、本人が望んだわけではありませんが、福島から情報発信をする仕事に就いたことが嬉しいです。よく見聞きして学んで正確な福島を発信してもらいたいと思います。

今、自分は福島市内のじょうもぴあ宮畑という施設でボランティアをして、縄文時代の人々の暮らしを学び、教えています。自然に対する探究と信仰が縄文文化には息づいていると信じているからです。
縄文文化を訪ねて東日本をあちこち旅するのも楽しいです。でも地方の美しくて豊かな自然に囲まれた山村の風景を見ると、時々羨ましいと思うこともあります。自分が失ったものがそこにあるのですから。」

そして後日、今回の記事が出るについて、記者さんからボクの話が「もっとドリアンさんの話を盛り込むべきとのことで入らなくなってしま」ったという謝りの連絡があった。

ボク自身としては、最初からそれほど記事には載らないだろうという思いがあって、あまりがっかりはしていない。話を聞きに来てくれただけで、自分自身が今どう思っているかを改めて整理することができたのでありがたいと思っているくらいだ、マジで。

新聞自体、ボクはそれぞれの旗色があって良いと思っている。同じ事実でも受け取る側の立場で評価は正反対のものにもなりうるのだから。むしろそれぞれの社がそれぞれの立場を鮮明にした上で、さまざま意見を聞き取り、調べて裏付けをとり、わかりやすい文章の記事にする、そういう過程と結果を期待している。その点、読売新聞は原発推進・憲法改正という旗色を鮮明にしているのだからスタンスはわかりやすい。取材があると言った時、妻も即座に「ヨミウリがなんであなたに?」と言ったくらいだからね(≧∀≦)

でも新聞も含めて現在のジャーナリズムが、そうした「立場を鮮明にした上での意見聴取・裏どり・わかりやすい記事」というルポルタージュをしてくれているのだろうかということに関しては大きな疑問がある。素人考えだが、ボクが本多勝一さんの著作などを読んでジャーナリズムに期待しているイメージはこんな感じだ。

・現場に行って意見を聴く
・一次情報の裏付けをとる
・ボクらに参加できない場(権力者の記者会見など)できちんと「やりとり」をして事実を質す
・役所に正確な資料を出させる
・読み応えのある構成と文章による記事を作る

SNSの記事を引用、台本があり一問一答限りの「記者会見」、「お答えは差し控える」の答弁や黒塗りの資料、広告ばかりの紙面、これが真のジャーナリズム環境と言えるのだろうか?

9年目の朝

2020 年 3 月 11 日 水曜日

馬鈴薯と 小松菜の 味噌汁

今日一日の 流れを 考える

取り立てて 変わりはない

「いつも」のように

気構えしすぎずに ゆこう

この 平穏な「いつも」が

いつまでも「いつも」で あり続けますように と 祈る思いを 抱く

3月11日 9年目の朝

誰が命を救うのか

2019 年 11 月 24 日 日曜日

昨夜

炬燵で ちどごろ寝してしまい

こりゃ いかんな と

寝直すため

小片付け テレビのチャンネルNHKにするとか(わたくし 朝 ほぼ テレビは観ないものの ちちははの習慣で 朝起きたら まずNHK…だもんで)

…したらば『誰が命を救うのか 医師たちの原発事故』てな 番組をやっており

ついうっかり…しかし しっかり 観てしまった

あぁ 喉元過ぎさせてる

六月に 帰宅困難地区の方々のところや 今も 休むことなく 収束させるために 立ち働いておられる方々に お会いして

も少し 何とかするためのことへ 寄り添い続けねばならぬ!と 心引き締めたのにな

その後

日々に 忙しないふりをして

その息抜きと称して だらりん…と しとるぞ

いかんな…

テレビ画面を 写して 載っけるなんて よろしからぬことだが

備忘録的に 何枚か…

今あることを 忘れず

うつつを抜かさず ぢびたに 足をつけて

本当に大切なことを ひとつひとつ

あの日から 始まった日々に 思ったことを

改めて 生きる

活かす

つなげてゆく

しかし こんな真夜中でなく 早い時間に 放送してほしいもんだわ

隠蔽 言い訳 嘘塗り重ね 己の根城を 守り保つためだけの 腐った垣根を 乗り越えて

困難が救われ

必要に 届くような 確かな 一足のために

知らずにいた事 知ったものの責任

2019 年 7 月 2 日 火曜日

先週の 原発事故 八年目の福島 体験学習ツアー

まだ 咀嚼できぬ部分 多々あり

しかし 生々しい思いのうちに なんとか 少しでも 受け渡しておかねば と

じりじりしたり ひりひりしたりしながら

伝わる形を模索した その後の一週間でありまして

何人かのかたから「ずっと 福島に行ってたのですね?」てなことを 労われ

いやいや 行ったのは ほんの 1日 2日なのですよぅ と 応えること 何度かありましたる

それだけ この短い時間に あるまじき!?情報量の多さ 濃さでありました

よくぞ 組んでくださった 事務局の方々

企画側の立場に近いところにおったものの

わたくしがやったことといえば

この企画に 財団の 年間予算から 支援額を決める 全国総会のときに

最後の決め台詞「福島で会いましょう」を 叫んだだけ

お陰で(余計なことやらずに 出番が最後だけだったお陰で!?) 全国YWCA代表会員の方々の 投票によって 最高額の支援いただくことができて

結果 この 得難い 素晴らしいツアーが 実現したわけなのでした

何の尽力もせぬまんまではありましたけど

感無量

億劫がらず 参加して 本当によかった

喉元過ぎてしまっていた 痛み

今も 暮らし続ける人たちの 思い

受け取ったからには

これからも あきらめずに 橋渡して行きたい

届く形にして 手渡してゆかなければならない

知った者として

知らずにいてしまった者としての責任…

そんなことを思うのでした

遠隔技術開発

2019 年 7 月 2 日 火曜日

JAEA…正式名称は 国立研究開発法人 日本原子力研究開発機構 楢原遠隔技術開発センター

東京電力福島第一原子力発電所(1F)の 廃止措置や 災害対応等に 対応する 遠隔操作機器の 開発や 実証試験が行えるところ

一般の人たちにも開かれている 施設とのこと

事前相談と 利用申請のための 書類審査などを経て 利用可能なのでした

はじめに 研究管理棟での 概要説明の後

没入型バーチャルリアリティシステム(VR)で 福島第一の 原子炉建屋内 模擬空間体験

ちみっと 画面酔いしてしまった…とほほ

その後 試験棟に移動

実規模実証試験エリア…実際の 原子炉格納容器の試験体の設置された でかいでかい 建物のなかにはいる

要素試験エリアは ロボット試験用水槽 福島第一の 施設内のあらゆる階段の模擬(階段を移動するロボットの実証試験)

そして 高速度カメラのついた 飛行ロボット…ドローンの 操作と その 計測画面を 見た

最新技術の集結で 収束に 向かっているところ

高校生などの ロボコンなど だいぶ 盛り上がってるけれど

そういった若者たちの技術開発の支援も 行っているとか

しかし ことは進んでいないということ

再び 研究管理棟に戻っての 質疑応答にて

「いつ取り出しを行うのですか?」

「取り出しは可能ですか?」と 質問が飛び交う

取り出す現場には こちらの 技術開発に 携わった人ではなく 東京電力のなかの 技術者がおこなうので

管轄外 とのこと

センターにおられる方々は 国からの予算が出てはいるけれど

国家公務員ではなく

ましてや 東京電力社員でもないのだ

「技術の開発と 提供だけなのです」とのこと

そして 燃料デブリ 取り出しは「可能です」と きっぱりおっしゃるが

「しかし 取り出したあとの 処置について かなりの難題があるので…」と 複雑な表情でおられた

なんて 簡単にはいかぬことばかり 山積みなのだか!

でも その山を どうにかせねば と

のぼり

きりひらき

平らかにしてゆこうと 邁進なさる人たちがいる

これは 希望の光でもあるのだ

「来て 見て 知ってくださって ありがとうございます」

力強く 朗らかに 手を振って 見送っていただいた

こちらこそ ありがとうございます 頼みます!と

びゅんびゅんと 手を 振りかえした

家も 死ぬ

2019 年 7 月 2 日 火曜日

浪江町大平山霊園から 楢葉町 遠隔技術開発センターへ移動のバス(国道6号線 帰還困難地区)のなかで

引き続き 清水修二さんからの お話

帰還困難地区の除染は これから始まる

しかし 周りの除染が済んでも 人の住んでいなかった家は 住むことができなくなっているものが多い

家も「死ぬ」のだ

普段 住んでいる家では たいして掃除などせず 屋根のメンテナンスなどもしていなくても 住む形を 維持していてくれる

しかし 人が住まない建物は 誰踏まずとも 床が抜け 屋根が崩れ落ち 壁も 剥がれていく

そこへ 獣らが侵入もしたりして 崩壊へと 後押しする

帰宅できますよ といわれ

補助がなされたとしても

作り直そうという 気力財力のある人は そんなに おられるわけではない

年代もある

「帰りたいけど 若いものに任せる」と ことばを濁す そこで生まれ育って歳を重ねた人は 多い

解体しても その廃材は 汚染されたものとして 処分されずに 仮置かれる

かつて 原発の誘致で 沸いていた 浪江や小高には

当時の 町長さん(まつくらたかしさん 故人)が「多くの人が 原発を待っているかもしれないが 自分は 原発が安全なものかどうかがわからない わからないうちは 賛成しない」と 公言し

かなりの批判を受け

誘致に成功した土地をやっかんで「向こうには蔵がたって こっちは (貧乏なままで) 腹が立つ」という 揶揄が 流行したのだとか

町民への 啓蒙冊子は「間違ったことは書いてないが 大事なことは書いていない。放射能は危なくないとかいてあって そのあとすぐに 防護について書かれていたりして 実は 親切ではない」

双葉町に入って 道端の 放射線量 表示板 0.767μsv

大熊町 2.014μsv

「廃炉工事雇用はあるけれど 人工ゼロのまちです」

「富岡も 人が戻って来てはいるけれど お墓を守れなくて お寺が廃業に追い込まれています」

「ウクライナでは 内部被爆対策を しっかりやっていますが 福島では 外部被爆対策が先行しているようです。内外合わせたものが妥当なのですけどねぇ…」

被爆に関しての 健康手帳を配る話があるものの

福島以外に 避難しているかたのなかには 福島から来た と 未だに 口にしたくないから そういうものは「いらない」と いっているかたもおられるとのこと

「ここは 田んぼだったのですよ」という 藪を見る

「ここいらの 除染は これからなのです」かつての住まいの 崩れ落ちそうな 屋根を見る

何をどこからどうしたら うまくいくのだろう

しかし 手に負えん と 手放すことはできない とも 思う

あまりの 課題難題の多さに

次の見学現場に到着するまでに

あたまうしろのところが 煮え煮えに 熱くなった

しかし 笑店街として 住みよいまちとして 考え抜かれた ニュータウン建設をも 見る

不安の上に 建てられているとしても

前を向いている人たちがいる