暮らし続けること…茂さんの投稿より

そこで暮らし続けること
そのために
受けとること
許してはいないこと
それぞれにあって
ちゃんと 伝わればいいと思う

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先日、読売新聞の取材があった。ドリアンさんの『線量計と奥の細道』に載ったボクの現状を聞きたいというのでお受けして、娘と記者さんと3人、1時間弱話をした。どれだけ伝わったかわからないが、話したいと思って予めまとめておいた内容は以下の通りだ。記事にはまったく載らなかったけど…。

「今一番訴えたいことは、原発の再稼働と新規建設の停止です。いったん事あればどうなるか?ということを福島の姿から学んで欲しいということです。

事故前、私は基本的にこの自宅の周囲10(遠くても30)キロ圏内の自然からどれくらい自給できるかを意識して暮らして来ました。川魚・山菜・キノコ・木の実・自然素材、畑でとれるもの、いつどこで何をどのように?
自然というのは知れば知るほど実りが返ってきます。そして、そこには自分の生活を自分で組み立てている自信と自然に対する一種の信仰が生まれるのです。
それを根本から崩したのが原発事故でした。

今、自然からとってきたものや畑で作った作物を以前のように東京の友人たちに送る気にはなりません。作物に対する自信というのは、環境に対する信頼がなければ出てこないからです。
自分自身が除染後の今でも0.2μSv前後という放射線がある畑で芯から寛げないのに、以前のように友人を呼んで畑で宴会という気分にはなりません。

福島の農林水産物に対する信頼の欠如は、個々の産物に対する不信よりも、それを生み出す福島の自然に対する不信が根本にあるのではないかと思います。だから、これは風評被害ではなく、原発事故が福島の自然に与えた実害なのです。『こんなに安全なデータなのに』といくら言い募っても、それを払拭するのは難しい。事故の収束と徹底した環境復元を図るより他にない、そう思うのです。

子どもが福島に帰って来たことは素直に嬉しいことです。農業やると言ってるわけでもないし、インドア派でもあるし、それほど心配もしていません。むしろ今回転職して、本人が望んだわけではありませんが、福島から情報発信をする仕事に就いたことが嬉しいです。よく見聞きして学んで正確な福島を発信してもらいたいと思います。

今、自分は福島市内のじょうもぴあ宮畑という施設でボランティアをして、縄文時代の人々の暮らしを学び、教えています。自然に対する探究と信仰が縄文文化には息づいていると信じているからです。
縄文文化を訪ねて東日本をあちこち旅するのも楽しいです。でも地方の美しくて豊かな自然に囲まれた山村の風景を見ると、時々羨ましいと思うこともあります。自分が失ったものがそこにあるのですから。」

そして後日、今回の記事が出るについて、記者さんからボクの話が「もっとドリアンさんの話を盛り込むべきとのことで入らなくなってしま」ったという謝りの連絡があった。

ボク自身としては、最初からそれほど記事には載らないだろうという思いがあって、あまりがっかりはしていない。話を聞きに来てくれただけで、自分自身が今どう思っているかを改めて整理することができたのでありがたいと思っているくらいだ、マジで。

新聞自体、ボクはそれぞれの旗色があって良いと思っている。同じ事実でも受け取る側の立場で評価は正反対のものにもなりうるのだから。むしろそれぞれの社がそれぞれの立場を鮮明にした上で、さまざま意見を聞き取り、調べて裏付けをとり、わかりやすい文章の記事にする、そういう過程と結果を期待している。その点、読売新聞は原発推進・憲法改正という旗色を鮮明にしているのだからスタンスはわかりやすい。取材があると言った時、妻も即座に「ヨミウリがなんであなたに?」と言ったくらいだからね(≧∀≦)

でも新聞も含めて現在のジャーナリズムが、そうした「立場を鮮明にした上での意見聴取・裏どり・わかりやすい記事」というルポルタージュをしてくれているのだろうかということに関しては大きな疑問がある。素人考えだが、ボクが本多勝一さんの著作などを読んでジャーナリズムに期待しているイメージはこんな感じだ。

・現場に行って意見を聴く
・一次情報の裏付けをとる
・ボクらに参加できない場(権力者の記者会見など)できちんと「やりとり」をして事実を質す
・役所に正確な資料を出させる
・読み応えのある構成と文章による記事を作る

SNSの記事を引用、台本があり一問一答限りの「記者会見」、「お答えは差し控える」の答弁や黒塗りの資料、広告ばかりの紙面、これが真のジャーナリズム環境と言えるのだろうか?

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