はじめて それに目をとめたのは
もう ずうっとずっと むかし
むこうに なんかある ゆらゆらゆれてるよ・・・と 言ったら
「あれは 『逃げ水』っていって 太陽のいたずらなんだよ」と じいちゃん
けむりにまかれたような ?のまま でも ふ~ん おもしろいねえと 丸ごとのみこんだ
しばらく あ!逃げ水だ~ まてまて~ なんてはしゃいでいた
その後 父の車で 逃げ水の話になった時 父は 少し科学的な説明をしてくれた
反射だか 屈折率だったか 蜃気楼の話とか
へえ と ある程度納得してしまうと
それから あまり 気に留めなくなってしまった。
昨日 「逃げ水」を見ながら
科学的なことがわかっても ありゃ やっぱり逃げてる水だよなあ と 思った
説明されても 月は やっぱり 山際の昇り・沈みかかりが 大きくて わくわくするし
虹は 光の分散なんだけど 光の扇子を 広げたようで うっとり気分になる
理屈を聞いて すべてわかってしまった気になって 何かを手放したのは 自分のせいなだけで
理屈がわかったからとて わくわくな思いや うっとり夢みることまで 見失うことでもなかったんだな・・・なんて
うまくいえないけど だいぶ時間がかかって 自分の中の 納得に辿り着いた感じ
昔、薬師寺の住職、橋本凝胤(ぎょういん)師は、死ぬまで地動説を信じませんでした。認めてしまうと、仏教の根本が崩れてしまうからです。偉い坊さんでした。
何を信じて生きていくか 自由なのですものね
小学生の頃 とあるクリスチャンが ダーウィンの考えについて 何やら 困ったようにもごもごと お話なさっていましたが
それを知った上で 胸を張ってりゃ良いのに・・・などと 思った記憶があります。
現代 地動説を信じずに 生きること自体がすごいことのような気がします。
地が動くと 仏教の根本も崩れてしまうものなのでしょうか?
もしかして あんなに壮大な ものは 崩れても 核のようなものは 揺るがないような気もしますけれど・・・うむむ よくわからない
仏教キリスト教そのたもろもろ 入口のドアや 通り道はそれぞれだけれど その奥にあるものは だいたい「みんな楽しくいい気持でし生きたいね」て 同じことかなぁ・・・などと ぼんやり思います。