あの日を思い出しながら

あの日

とりたてて ひどい目に遭ったわけではないのです

内陸の ぼんやり盆地で

がしゃがしゃと 崩れた 本も 荷物も そのまんまにして

通信が 途絶えていて

何が起こったかも よくわからないまんま

すぐに復活すると思った 電気 

復活しないなら 冷蔵庫の中のもの 腐る前に 食べなくちゃ なんて

のんきなこといって

はじめのうちは 蝋燭のあかり灯してたりもしたけれど

暗くなる前に すべて済ませてしまえばいい と 切り替えて

朝に 射してくる 光を

並んでならんで いただく水を

石油ストーブと プロパンガスを ありがたがり

本屋さんの 袋が 一番 うんこさんゲットにいい♪と 与太言って 笑ったり

からだなんて 洗わなくても平気だったし

10日以上 着替えもせずに おんなじ服着たまんま 寝て起きて

信号のつかない 交差点を 優しく気持ちよく 譲り合って かわりばんこしてくれる 見知らぬ同士に 感動したり

仕事や 約束事へ 連絡とれない 心配を さておいて

縁側で 南瓜の種を剥いたりしていただけなのです

でも あの日々の中で

まだ テレビもつかない 事情も知らない 余震の続く暗闇の中に 満ちてきた 

なんだかよくわからないのだけど せめぎあうような

光はないのに ちかちかするような じゃわめきを 見た気がした

夢だったのかなんなのか

今もわからないのだけど

なにか繋がなければ という 思いだけは

ずっとずっと あるのです

壮大な話でもなく

そして 目の前の命たちとの 向き合いを いとおしみながら

撫でるように 丁寧に生きていこうと

あらためて 思うだけなのです 

毎年 その日の その時間が近づくと

大したこともなかったくせに 震えてしまう自分が なんだか 許せないような気持ちにもなって

だから 何事もなかったふりして 普段通りに ご飯を作ったり

ことほぎの現場で 踊ったり

セレモニー的なところへは 行かずに過ごしてきたのでした

日々 喉元過ぎさせて 忘れてるような瞬間が おおいくせに

この時期になると「普段通りに」の 感覚の再現 というか

改めて 感じ直すような 心持ちになるのでした

今年は 中新田にいます

きっと その時間は 黙祷というよりも

祈る思いで パフォーマンスしてる方々を 

目を開いて 観ているはずです(タップ稽古に参加してくださってるかたが 縄文おどりに 出演なさるのです)

チケットありますよ

誰か 行きませんか?

どさくさ紛れにいうことではないのだけど

日々 すべてが どさくさと めまぐるしい 今日この頃

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