珈琲の香り

今より若い頃

己を 生きることを 見失いかけたとき

喫茶店の壁に貼ってある 自分の名前の 珈琲チケットと 

その周辺事情に 救われたことがあった

心持ち 万年迷子のような わたくし

よく うろうろしてしまうのだけれど

あの日の そんな些細な 出来事が

「難しく 考え込まずとも たやすく こころは 救われるのだよ」 と

珈琲の香りと共に 思い出させてくれる

光さす 転機に 珈琲の 香りが 漂っていた

たとえば 以前

フリーライターあんちゃが 東京から うちに戻ってきたばかりの頃

食後の珈琲を いつも淹れてくれていた

久しぶりに また 一緒に 暮らせる嬉しさで

ちょっと 濃いめの 雑な味の 量販ものだとしても

うきうきして 飲んでた

んで 2009年8月 くも膜下出血で 倒れ

もう 戻ってこれない…とまでいわれていたのが 奇跡的に 生還し

入院中の 一時帰宅のとき

珈琲を淹れようとしてくれた

フィルター用の粉を カップに直接入れるのを見たとき

ちょっと 震えたけど

それはそれで そこにいてくれることの嬉しさで

涙 滲んだっけな 

高次脳機能障害(短期記憶障害程度)とか言われたわりには

ライターのときの まめメモ習慣健在のお陰で 

わたくしよりずっときちんと 覚えていたりもする

今では 

かつて 淹れ方間違ったなんて記憶は消え去り

なんの問題もなく 淹れている

でも「君がいるときは 『美味しい』つって こだわってる豆の珈琲 淹れてちょ」なんて 

大好きな おともだち しっし~のとこの「太陽と月の珈琲」から 送ってもらってる 豆を 指さす

でも そんな 言いぐさも 嬉しかったりするのだな

「この歳になったら もうインスタントでいい」なんつってた父も

「そんなに んまいつって ずっと 買ってるやつのらば 飲まなくてねぇな…お前がいるときは 淹れてもらうことにする」なんて 言い出して

珈琲あまり好きでない母までが

「これは んまい」なんて

珈琲を 真ん中に

なんとなく みんな 集まってくる感じ

ひとりで ゆったり飲むときも 

あは♪ んまい とは 思うけど

そのとき いつも 珈琲の香りに 救われたひとときなども じんわりしみだしてきて

うまさに 嬉しさが 加味されているかもしれないなぁ なんて 思う

珈琲の香りに 思いを纏わせて

更にまた 好きになっているのかもしれない

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