ショートムービー座談会

にしぴりかの映画祭

あと もうひとつ

一日目に 三本の上映と トークショー終わってのち

会場近くの 叶蔵にて ショートムービー座談会~蔵で語り合うそれぞれの生き辛さ~てのがあった

5人の方…今村彩子さん 海子さん 我妻さん 宍戸さん 高橋さん…と 

いずれも そうそうたる ドキュメンタリー映画監督さんの 映像を観て 

その感想や それぞれの「生き辛さ」を 語り合うという ひととき

なんて 贅沢!

それぞれの 5分あるかないかの 映像…とはいえ

感じるところ 多すぎて

座談会だ てのに

思いが 湧きあがりすぎて

いっぺんで出口に殺到して 誰一人出られない…てな風情の わたくしの 感情風景 

その場で 一言も 発することができませんでした

今村さんの 映像の中で 哲さんが「考え事をするとき 頭の中で 声で考えるのかどうか」という質問があって

あぁ それ 韓国語を習ってるときに 似たようなこと 先生に訊いたことがあったなと 思い出した 

日本語と違って 韓国語は 表記するけれど 文字の並びによっては 発音しない 子音的なものがあって

そのことばを思い浮かべるとき 音声で 思い浮かべるのか 文字の画像を浮かべるのか…てな 質問

「どっちでもない」などといわれ

「あなたも 考えるとき 頭に 音が浮かぶのですか?文字が浮かぶのですか?」と 

逆に 訊かれて

あ そういやそういうこと 改めて考えたことなかったな と おもったのだった

思いの動きがあって

意識するときは 言語の 響きとか 文字を浮かべることはあるけど

むしろ 形っぽいかもしれないなぁ なんて 自分については 説明のつかないことを 浮かべたりして…

そんなことを思い出した

海子監督さんの 娘様の 即興的 歌の 家庭内ミュージックプロモーションビデオ的な作品

深い意味がない ことばの羅列…とは言うものの

だからこそ 余計に 脈絡のない 隙間に 己の思いが どどどっ と 注ぎ込まれて

深く厚く広く意味付けされてゆく感情「わたしたちでない場所」なんて 

なんども出てくるうちに もう それでしか表せない思いが 涙さえ誘う

歌った本人「忘れちゃった…でも楽しかった」なんて さっといってて(小学2年生ですけ?)

そのまんまいてほしい「才」を 思う

宍戸監督の 24時間介護の 一場面

我妻監督の 波伝谷に生きる人々の 一場面

これは 共に 改めて 本編的なものを 観たい思い

そして 映画を観ることができなくて DVDを 買った『破片のきらめき』の 高橋慎二監督のものは

フランスの 精神病院メゾン・ブランシェの中にある

精神病院という枠を取り払った「アトリエ・ノンフェール」…なにもしない という意味の アトリエ

作業療法ではなく

アトリエという 枠はあるけれど

何かせねばならないという場所ではなく

なにもしない…を しにきてもよい 場所

そして そこで やがて のびのびぐいぐいと 表現される 

演奏 絵画 オブジェ その他もろもろの ゆたかなものたち

ここを開いたのは かつて 看護師をしていた男性で

病院内の 規律や 枠を 取り払わねば その人にとって よろしくない…という 強い思いに至ったから…とか

今では かつて お城であったところを 国からだか なんだかから(うろ覚え)無償で提供されているというはなし

夢のようだな そうあるべきだな

囲い込みでない のびのびと解放される場所

そこで 発揮されるもの

もしや「病」と 名付けられるような人だから その対極の才能も秘めている…なんてことでもなくて 

解放される 受け止められる場所に 呼び覚まされるものなのではないか?

一般社会に 適応できる…なんて 枠に収まることに 安定を見いだしてる「健常者」という 「かたわも」のこそ

解放される場所を 持てていないのではないか?

なんか もう そんなこと ぐるぐるしてしまいましたとさ

色々わかったと 思うなよ まだまだだよおめえ なんて

ちょいと 己の浅はかさを 回し蹴りしたくなる気分

なんかもう いっぱいいっぱいなこと いただいて

消化できぬまんま

でもいつの日か そんなこんなも 昇華できたらいいななんて

希望の光みたいなんも 灯しつつ

吉岡宿を あとにしたのでした

あぁ ほんに いいひととき

きっと 飛び火のように こっちにも 灯したい光

ありがとうございますた

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