緑から茶色へ

なんで?なんて 理由は要らない 模様広場のお友達の色が
なんとなく 茶色っぽくなってきた
枯葉・・・なんて一言で言うには もったいないくらい 
いろいろで 美しい 葉っぱちゃん
さとこせんせが 捕まえてくれた かなちちょちゃん(かなへび)ちゃん
怪獣墓場みたいな 虫の亡骸だまりの 空蝉・バッタ・蝉ちっこいおともだち
刈り取られて積まれた 草草
皆土に還るのか なんてことをふっと思ったものの(かなちちょ 生きてるのにね すまん)
今 土に還ることの出来る 生の「全う」は 日本社会の中では 結構 難しいことだったりして
広場の生き物のめぐりほど 役立っていない人間の 無用さなど ふと 思う
そうはいっても そこに 笑いながら 駆け回る お子達は
なぜあつまったか役に立つとか立たぬとか 全くどうでもいいくらい 
そこにいてくれるだけのことで充分だしな と 思いなおしたり
なんだか 秋口は 感傷的になっていかん
枯れ草で作った 山に ざ~ん!なんつって 寝転がって
お子達と共に空見て わはは~なんて 笑ってみる

コメント / トラックバック 2 件

  1. akaru より:

    「こどもーあなたにとってそれは、たんに未熟なヒナドリではありませんでした。むしろ、もっとも完成された創造物であり、損なわれてはならない人類の原型でした。こどもたちは、けっして役立たずでもなく、かわいい愛玩物でもなく、人間の一生の中で最も豊かで意味深い労働をいとなむ知的労働者であり、人類の創造性を保証する原動力でした。こどもたちは、楽天的で、前進的で、自由で、彼らを眺めるでけで人々の心に平和をもたらす「思想家」でした。このようなこどもたちに対しては、教えることよりも、彼らから学ぶものの方が多いことをあなたは指摘しつづけてきたのです。」
    これは、理論社の小宮山量平さんが『2歳から5歳まで』(理論社)という本の著者、チュコフスキーにたいして、その本の「刊行のことば」の中で述べている言葉です。
    ぶんぶんさんは、同じことを、「お子達と共に空見て わはは~なんて 笑ってみる」の一行で表してはります。見事なものです。

    • bunbun より:

      小宮山さんの文章は 貪欲に 児童文学やら何やらを 読み漁って学ぼうとしていた時期に どこかでなにか 読んだような気がしますが 詳しくは覚えておらず
      万事この通りですから お子達に関わる 先人達の 素晴らしき思いが 言葉の枠からはがれて その思いの雫のようなものとして この身の中に 滲みていったのかな、実際 触れ合っていて かつての思いと 共鳴して 今の感情も揺れ動いたりしているのかな・・・と 思ったりもします。
      自分が思いついたような気になって語ると 大抵もう そういった類のことは 語りつくされていたりもして でも何か語りたくて・・・
      そういう時は「これぞ 真理 見つけたり!」と 語るでなく
      「今 生きてて わたくしは こんな風に 感じただ~」と 感想めいたものを つぶやくしかないかもなあ と ぼんやり 思うのです。
      なもんで 「一行で表わす」なんてな大層なことよりも akaruさんが 文学の豊かな大海から すくい上げたものを わたくしに 照らし合わせてくださる 懐の深さ しみじみ感じます。 
       

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