思いの 切れ端

ひとの日誌を 見るなんて 後ろめたさみたいなものが つきまとうけど
正しく記憶を繋ぐための 添削をせねば・・・の 義務感と
今日は どんな世界が展開してるんだろ・・・という 物見高さ ないまぜで
あんちゃの日誌を 見せてもらう。
このごろ 以前ほどの 突飛な ファンタジーはなく 
それも嬉しいような さびしいような。
「祖母は六年位前に亡くなったという。それなのに 姿が見える。祖父の姿さえ見える」
・・・そんな記述は ここ数日 見られない。
とはいえ、『野鳥の世界』を 持って行ったあとは 
リハビリの記録が 何故か「巣から落ちた雛を助ける」・・・なんて 話になってたりするけど。
「ふいに 虫の声がきこえる/なんという虫か わからないが かすかに/しかしここは三階/ここまで聞こえてくるだろうか」
こりゃ 詩ですかね。
室生犀星の「なんといふ 虫かしらねど 時計のはりにはいのぼり つうつうつうとなく 虫けらもののかなしさよ」・・・でしたっけ?うろ覚えの 詩を 思い出した。
たみおばの 中国土産「マカダミアナッツチョコレート」(ハワイでもグアムでもなく 中国のマカダミアナッツチョコレート・・・パンダ&万里の長城の写真の箱!こてこてぶり180%)の 1/4を こっそり 差し入れたら、「君は食べたの?」と 気遣ってくれつつ ぺろんと たいらげた。
こんなに すぐ食べちゃったら 記憶に残らないかも・・・と 日誌に書いてもらった。
以前 お友達の 真壁君から いただいた お菓子は
わしらが 見る前にもう なくなっていたけれど
日誌に「文とさなおばが 気に入って 全部食べてしまった」ことになっていた。
いや、食べてないですかんね わしら。
でも あんちゃのなかで「いやすこ」(くいしんぼう)なんだろうな、わたくしと さなおばは。
印象が紡ぐ ことどもを 語る 物語って そういうこと。
事実ではなくても 嘘ではない。
もしかしたら 真実なのかもしれないな。

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