憧れ半分

初めて 読んだのは 新聞に連載されている「もの食う人々」だったかな
すげえ!と 思った。
それと同時に 気持ちの奥が 恥ずかしさみたいな いたたまれなさみたいな
・・・憧れていたくせに、そこへ行こうとしてたのに 怖気づいて逃げ帰ってしまった その現場に 傷を負いながらも 未だ 立ち続けている 人から 問題を突きつけられたような気分。
辺見庸氏・・・読むたび 自分の 生ぬるさを 恥じる。
でも 何も悔い改めず また うっかり あいかわらずのまま 読んで
再び 痛む気持・・・馬鹿か?
鋭利・怜悧?なんていったらいいかわからないけど
まっさらな 紙で切った傷のような 痛みに似てる。
河北新報に 月1~2回くらい 載る「水の透視画法」も
どきどきおそるおそる 正座して読む。
『自分自身への審問』(角川文庫)も、脳出血やガン手術を越えて 書かれた・・・ということで ちちやあんちゃの術後への希望の片鱗でも 見つけてつなげられたら
・・・と うっかり手にとって 自分の ふがいなさの方が 先に膨れ上がっちまって 気持ち ぐにゃけ。恥ずかしい
わかんねえくせに お名前出すこと自体 恥を知れってか?てな気分 ありますが
解説(加藤万里氏)に「辺見庸を、読者が無傷のまま読むことが出来ないのは」と 書いてあるのを見ると、やはりこのお方は 突きつけておられるのだな・・・と 思う。
安全圏にいながら でなく、現場に立ち 自分にも 刃の先を 突きつけながら 綴っておられるのだろうな。
これからも 痛くて確かな重量のある 思いを 言葉を 届けてください。

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