少しの救いはあったのか

こことこ 新聞もテレビも ほぼ 見ずにおる 浮世離れ感満載のわたくし

しかし おばからたのまれたのか

あんちゃが 新聞を 抜き出していたのがあり

手にとって 読んでみたら

河北新報 8月25日の

親戚 新澤醸造店さんに 関する記事

関東大震災のすぐあと 在郷軍人会 志田郡連合分会の117人でつくる 救援隊が

田端 日暮里 巣鴨の 3駅で

貨物積み下ろしや 交通整理や 乾パン配給に従事したと

新沢順吉分会長(今の社長の 曾祖父ちゃんに当たる)が 組織 統率したとのこと

震災直後の デマ…朝鮮の方々が 井戸に毒を入れた…やらなんやらが 元になって 鵜呑みにした暴徒が 虐殺をやらかす 悲劇があったあたり

しかし 陸軍第2師団から 救援隊へ「心得」として 送られた中に

『朝鮮人すべてが不良ではない。『博愛衆に及ぼす』は国民道徳の真髄」と 軽はずみな行動を戒めるものもあったと…

これらの資料は 東日本大震災で全壊した酒蔵の中にあり

それを発見した 擁子さん(母いとこの おつれあい 涙出るほど いつも良くして頂いてるです)によると

「多忙だったしゅうとめが先代の貴重な資料を包みにまとめ、片付けのときに 私の目に留まらせてくれた。感謝の思いです」と 話したと

「しゅうとめ」てのが おらいのばあちゃん妹の「あさこばちゃん」

大きな 商家に嫁いで もんのすごく くろうしたから 自分の 嫁には 辛く当たるまいと 決心したとかなんとか

そんなはなしは 仲良し姉妹会の折に よく 話していたようだった

虐殺は 起こってしまった 取り返しのつかないことだけれど

すべてが そこへ向かっていたわけではなく 呑み込まれるな と 諭す思いも あったのだということ

やらかしたことを 拭い去って 救いになるわけではないとしても

みながみなではない…というのは ほんのすこしの 救い未満には なるかな

遠い昔の あまり関わり合いのない話を

ぐっと 引き寄せてくれたこと

ありがとう と 空など仰いでみた

そしてまた 自分ができることとしたら なに?と

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