きっと ことさらに かなしむだろうけど

ちょうど一年前

さきっぽちゃん(避妊済 享年 一歳)を 見送らねばならなかった日

あの時 もっと 自分が ぼ〜っと過ごさず 注意深く過ごせていたらとか

なにかしら 悔やみが 湧いてしまうだろう

あの日以来 しばらくは まつわるものを目にする度 泣いてばかりいた

いつしか さほど泣かなくなり

全く平気になったわけではないけれど

敢えて 哀しみに 滑り落ちてゆくような 心向きにならぬように つとめ

日々のことが 凍結されるような状態にはなっていない

車に乗るときは 停めてある近くの 弔いの場所に向かって 呼びかける…さきっぽちゃんの あと 相次いで 看取った ちびにゃんたちの 名前も共に…

その時は 泣いたりなどしなくなったのだけど

やはり 今日という日は ことさらにかなしむだろう

でも たとえば 8年前の5月に でかけたきり 帰ってきていない ぴっちっちっ(避妊済 その時点で 20歳)のことは

ずっとずっと 泣きながら 待ってる!と 言い続けていたけど

いつしか泣かなくなった

いつもいつも 思い出していた あの 感触とか においとかも

今では だいぶ薄れている

日々の ねこねこしい じゃわめきに 凌駕されたりもしているのだろう

でも 忘れきってはいない

忘れたくない思いもある

いっぱい 悔やんで泣いて

そうすることに疲れて かなしみくやみが 脱色漂白されて

こだわりしがみつきが いつしか 手放されて

愛しい存在 という 核だけが ぽこり と 浮き上がる日が くるといい

難しいのだけれど

とにかく 今は 愛しい めのまえの いのちたちと

ひたすらに 生きて暮らしてゆく

その日々の 連なり 重なりにしか

癒やされないのだから

「requiescat in pace」

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