いつも「ひっぽの元気な味噌」でも お世話になってます
なにがあっても なくても
ひかりにつなげてゆく
希望の種…たくさん 蒔いておられます
根付き
芽吹き
花咲かせて
やがて ひろくふかくあたたかくゆたかな森になる
人の心が 耕されているところ
「そのつ森」顔本ページより
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「あの日」から5年
「3・11」、東日本大震災から5年が経った。テレビや新聞では震災・復興関連の番組や記事がたくさん報道されている。そうしたものに接しながら、5年という月日の波はいつの間にか私自身の震災に対する生々しい記憶を良くも悪くも丸くしていたことを実感する。しかし5年前を振り返り、目を閉じる時、私にとっての震災はテレビの中の出来ごとではなく、まぎれもなくリアルな「あの日」としてよみがえってくる。
「3・11」、丸森町も経験したことのない揺れに襲われた。しかし私が暮らす筆甫地区は岩盤が固い山の中ということが幸いして、地震や津波による直接の大きな被害は避けられた。停電や物資の不足はあったものの、それだけであれば私たちにとっての震災は違ったものになっていた。だが、周知の通り、その後まもなく福島原発は歴史に残る大事故を引き起こしてしまった。過去の教訓に学ばず、自然の脅威を甘く見てきた代償として・・・
それから2年間は怒涛の日々だった。見えない汚染への恐怖、経験したことのない日常。子どもたちを避難させたり、遅い行政の対応を待てず、自分たちで子どもの通う学校の除染を行ったりした。愛する郷土をそして20年かけて無農薬で土づくりをしてきた田畑を放射性物質で汚染されて流した悔し涙。役場に県にそして霞が関に足を運んで対応を求め、訴え続けた日々。地区の少子高齢化に拍車がかけられ、さらには途絶えた田舎暮らし、移住の相談。
だが、そんな辛い状況の中にも今につながる「希望の種」を見つける事もできた。何度も述べていることだが、それは廃校となっていた旧筆甫中学校が南相馬市の方々の避難所として活用されたこと。大変な境遇の中にあっても助け合い、励まし合いながら共同生活する姿に多くの示唆を受け、またこの校舎に大きな可能性を見た。そして悩んだ末にこの「希望の種」を蒔く決心をした。そんな種が3年かけて小さいが苗木に育った。仲間が少しずつ増え、「NPO法人 そのつ森」が立ち上がり、中学校の利用の許可がおり、ご存知のようにデイシェア(デイサービス)事業もスタートすることが出来たのだ。原発事故という不幸な出来事が今の「そのつ森」におけるお年寄りとの日々のきっかけを作ったとは皮肉、いや「災い転じて福となす」とでも言おうか。関係者の献身的な働き、地域や色々な人たちの支援で育ち始めた苗木。この苗木を大事に育て、やがては大きな「そのつ森」になるようにこれからも汗を流していきたい。
震災で失われたたくさんの命、流された多くの涙、原発事故により未だに故郷に帰れない人々、それぞれの人たちの「あの日」を私たちは共有し続けていかなくてはならない。
「あの日」から5年、「そのつ森」の原点である震災、そして原発事故の教訓を風化させることなく、しっかりと前を見ながら進んでいきたいとあらためて思う。
太田茂樹(代表理事)