‘東北関東大震災’ カテゴリーのアーカイブ

うっかりじっくり

2019 年 11 月 24 日 日曜日

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昨夜

炬燵で ちどごろ寝してしまい

こりゃ いかんな と

寝直すため

小片付け テレビのチャンネルNHKにするとか(わたくし 朝 ほぼ テレビは観ないものの ちちははの習慣で 朝起きたら まずNHK…だもんで)

…したらば『誰が命を救うのか 医師たちの原発事故』てな 番組をやっており

ついうっかり…しかし しっかり 観てしまった

あぁ 喉元過ぎさせてる

六月に 帰宅困難地区の方々のところや 今も 休むことなく 収束させるために 立ち働いておられる方々に お会いして

も少し 何とかするためのことへ 寄り添い続けねばならぬ!と 心引き締めたのにな

その後

日々に 忙しないふりをして

その息抜きと称して だらりん…と しとるぞ

いかんな…

テレビ画面を 写して 載っけるなんて よろしからぬことだが

備忘録的に 何枚か…

今あることを 忘れず

うつつを抜かさず ぢびたに 足をつけて

本当に大切なことを ひとつひとつ

あの日から 始まった日々に 思ったことを

改めて 生きる

活かす

つなげてゆく

しかし こんな真夜中でなく 早い時間に 放送してほしいもんだわ

隠蔽 言い訳 嘘塗り重ね 己の根城を 守り保つためだけの 腐った垣根を 乗り越えて

困難が救われ

必要に 届くような 確かな 一足のために

つなげ つづけてゆくこと

2019 年 7 月 2 日 火曜日

伝わるかたちで繋いで行かねばね先週の 原発事故 八年目の福島 体験学習ツアー

まだ 咀嚼できぬ部分 多々あり

しかし 生々しい思いのうちに なんとか 少しでも 受け渡しておかねば と

じりじりしたり ひりひりしたりしながら

伝わる形を模索した その後の一週間でありまして

何人かのかたから「ずっと 福島に行ってたのですね?」てなことを 労われ

いやいや 行ったのは ほんの 1日 2日なのですよぅ と 応えること 何度かありましたる

それだけ この短い時間に あるまじき!?情報量の多さ 濃さでありました

よくぞ 組んでくださった 事務局の方々

企画側の立場に近いところにおったものの

わたくしがやったことといえば

この企画に 財団の 年間予算から 支援額を決める 全国総会のときに

最後の決め台詞「福島で会いましょう」を 叫んだだけ

お陰で(余計なことやらずに 出番が最後だけだったお陰で!?) 全国YWCA代表会員の方々の 投票によって 最高額の支援いただくことができて

結果 この 得難い 素晴らしいツアーが 実現したわけなのでした

何の尽力もせぬまんまではありましたけど

感無量

億劫がらず 参加して 本当によかった

喉元過ぎてしまっていた 痛み

今も 暮らし続ける人たちの 思い

受け取ったからには

これからも あきらめずに 橋渡して行きたい

届く形にして 手渡してゆかなければならない

知った者として

知らずにいてしまった者としての責任…

そんなことを思うのでした

楢原遠隔技術開発センター

2019 年 7 月 2 日 火曜日

日夜 収束に向けてパスで ドア開閉概要説明技術の集結写真撮っていい ぎりぎりのとこでっけえええぇ模擬水槽ロボコン支援ドローンをとばす計測画面を人の入って行けぬところへ

JAEA…正式名称は 国立研究開発法人 日本原子力研究開発機構 楢原遠隔技術開発センター

東京電力福島第一原子力発電所(1F)の 廃止措置や 災害対応等に 対応する 遠隔操作機器の 開発や 実証試験が行えるところ

一般の人たちにも開かれている 施設とのこと

事前相談と 利用申請のための 書類審査などを経て 利用可能なのでした

はじめに 研究管理棟での 概要説明の後

没入型バーチャルリアリティシステム(VR)で 福島第一の 原子炉建屋内 模擬空間体験

ちみっと 画面酔いしてしまった…とほほ

その後 試験棟に移動

実規模実証試験エリア…実際の 原子炉格納容器の試験体の設置された でかいでかい 建物のなかにはいる

要素試験エリアは ロボット試験用水槽 福島第一の 施設内のあらゆる階段の模擬(階段を移動するロボットの実証試験)

そして 高速度カメラのついた 飛行ロボット…ドローンの 操作と その 計測画面を 見た

最新技術の集結で 収束に 向かっているところ

高校生などの ロボコンなど だいぶ 盛り上がってるけれど

そういった若者たちの技術開発の支援も 行っているとか

しかし ことは進んでいないということ

再び 研究管理棟に戻っての 質疑応答にて

「いつ取り出しを行うのですか?」

「取り出しは可能ですか?」と 質問が飛び交う

取り出す現場には こちらの 技術開発に 携わった人ではなく 東京電力のなかの 技術者がおこなうので

管轄外 とのこと

センターにおられる方々は 国からの予算が出てはいるけれど

国家公務員ではなく

ましてや 東京電力社員でもないのだ

「技術の開発と 提供だけなのです」とのこと

そして 燃料デブリ 取り出しは「可能です」と きっぱりおっしゃるが

「しかし 取り出したあとの 処置について かなりの難題があるので…」と 複雑な表情でおられた

なんて 簡単にはいかぬことばかり 山積みなのだか!

でも その山を どうにかせねば と

のぼり

きりひらき

平らかにしてゆこうと 邁進なさる人たちがいる

これは 希望の光でもあるのだ

「来て 見て 知ってくださって ありがとうございます」

力強く 朗らかに 手を振って 見送っていただいた

こちらこそ ありがとうございます 頼みます!と

びゅんびゅんと 手を 振りかえした

国道6号線(帰還困難地区)を ゆきながら

2019 年 7 月 2 日 火曜日

工事そのままでときがとまるお墓参りに訪れることもなかなか叶わぬ第二だっけ?田んぼだった入れません入っては行けませんくずれおちてゆくこれから除染!?ここもたんぼだったニュータウン

浪江町大平山霊園から 楢葉町 遠隔技術開発センターへ移動のバス(国道6号線 帰還困難地区)のなかで

引き続き 清水修二さんからの お話

帰還困難地区の除染は これから始まる

しかし 周りの除染が済んでも 人の住んでいなかった家は 住むことができなくなっているものが多い

家も「死ぬ」のだ

普段 住んでいる家では たいして掃除などせず 屋根のメンテナンスなどもしていなくても 住む形を 維持していてくれる

しかし 人が住まない建物は 誰踏まずとも 床が抜け 屋根が崩れ落ち 壁も 剥がれていく

そこへ 獣らが侵入もしたりして 崩壊へと 後押しする

帰宅できますよ といわれ

補助がなされたとしても

作り直そうという 気力財力のある人は そんなに おられるわけではない

年代もある

「帰りたいけど 若いものに任せる」と ことばを濁す そこで生まれ育って歳を重ねた人は 多い

解体しても その廃材は 汚染されたものとして 処分されずに 仮置かれる

かつて 原発の誘致で 沸いていた 浪江や小高には

当時の 町長さん(まつくらたかしさん 故人)が「多くの人が 原発を待っているかもしれないが 自分は 原発が安全なものかどうかがわからない わからないうちは 賛成しない」と 公言し

かなりの批判を受け

誘致に成功した土地をやっかんで「向こうには蔵がたって こっちは (貧乏なままで) 腹が立つ」という 揶揄が 流行したのだとか

町民への 啓蒙冊子は「間違ったことは書いてないが 大事なことは書いていない。放射能は危なくないとかいてあって そのあとすぐに 防護について書かれていたりして 実は 親切ではない」

双葉町に入って 道端の 放射線量 表示板 0.767μsv

大熊町 2.014μsv

「廃炉工事雇用はあるけれど 人工ゼロのまちです」

「富岡も 人が戻って来てはいるけれど お墓を守れなくて お寺が廃業に追い込まれています」

「ウクライナでは 内部被爆対策を しっかりやっていますが 福島では 外部被爆対策が先行しているようです。内外合わせたものが妥当なのですけどねぇ…」

被爆に関しての 健康手帳を配る話があるものの

福島以外に 避難しているかたのなかには 福島から来た と 未だに 口にしたくないから そういうものは「いらない」と いっているかたもおられるとのこと

「ここは 田んぼだったのですよ」という 藪を見る

「ここいらの 除染は これからなのです」かつての住まいの 崩れ落ちそうな 屋根を見る

何をどこからどうしたら うまくいくのだろう

しかし 手に負えん と 手放すことはできない とも 思う

あまりの 課題難題の多さに

次の見学現場に到着するまでに

あたまうしろのところが 煮え煮えに 熱くなった

しかし 笑店街として 住みよいまちとして 考え抜かれた ニュータウン建設をも 見る

不安の上に 建てられているとしても

前を向いている人たちがいる

浪江町大平山霊園へ

2019 年 7 月 2 日 火曜日

浪江町役場これからにつなげる中間処理町役場のかたてつかずのところただてをあわせいのる

ゆく道々

除染 解体 建設…

作業をしておられる方々あり

帰還困難地区を ゆくゆく 帰還可能にするため

しかし 手付かずのところのほうが 多い

すぐに帰れるだろう…と 無造作に 停めたような 車

人のいた 暮らしの気配が 草ぐさに 呑み込まれている

バリケードは その場所の 持ち主さえも 立ち入ることを許さない

「途方もない」という ことば ばかりが 浮かぶ

小高い霊園の すぐ先

「あれは 津波で打ち上げられた 瓦礫なのです」と 指差された

八年手付かずのところ

その先には 震災遺構になる予定の 小学校

せめてもの救いは その学校は 当時の校長先生が 地震があったらまず小高いところへ避難して戻らないこと…を 徹底していて 速やかなる 避難行動ができて

当日の 津波の 被害で亡くなった お子達はいなかったということ

しかし 大人たちは それまでの 地震による 津波が ほんのわずかの 高さでしかなかったから…と たかをくくってしまっていた

家の様子を見に戻って 津波に呑まれた方々

津波だけではなく

見えない波…放射能にも 呑まれたため

救助や 捜索隊は しばらく立ち入ることはなかったあたり

「まだ 見つかってないかたは…」

数字は よく聞きとれなかった

でも数は問題ではない

「わたくしの 親戚も そういう亡くなりかたをしまして…」

さらりと おっしゃる…決して さらりとした内容ではない

取り返しのつかないことが あったということ

更に 上乗せされているということ

ただ ただ 手を合わせた

までいな 弁当

2019 年 6 月 30 日 日曜日

滋味をいただく彩りもあじもすんばらし美味しい弁当を ありがとうございます買いましたひりひりと 思い出せ

24日(月)

飯舘村 交流センターで 鴫原さんの お話をうかがったあとは

「いいたて村 食を考える会」の みなさんによる 心尽くしの お弁当を いただいた

まんず 隅から隅まで 滋味というか

素朴に んまいのよ

「農作業の合間の 楽しみでねぇ…凍み餅の天婦羅とか♪」て 鴫原さん

「朝 四時半から 夜の七時まで ずっと働いてたの 避難して 動かねぇぐなったから 糖尿とか 病気出っつまったんだげんとも…んまいものは んまいっ♪て 食うのが いいんだよ…なぁ」と

お連れ合い「かあちゃん」が 食べない と 言った 桜餅を もらって

笑顔で ぱくりっ と かぶりついた

嘆いてばかりいられないんだ

大切な日々 今このとき

たのしく 笑いながらやっていこう と

「また ぜひ 来て」と みなさん 笑顔で 手を振ってくださった

先日届いた『もどれない故郷 ながどろ 飯舘村帰還困難地区域の記録』(芙蓉書房出版)には

笑顔で 話してくださった 鴫原さんたちの あの日からのことが 更に 丁寧に 掬い上げられている

喉元過ぎてしまっていた いろいろなこと

さておきにしてきたこと

これから 大切にしていきたいこと

改めて取り出す思い

「まで」ぇに 伝えてゆく

2019 年 6 月 30 日 日曜日

鴫原さんかあちゃんまだまだ歩み続ける

帰還困難地区 長泥の 地区長 鴫原良友さんからのお話

終始 ユーモアあふれた 温かな 語り口

しかし それは 深く重い 悲しみと怒りとやるせなさを 越えて 前だけを向いて ゆこうと 思い改めた日々の裏付けがあってこそのこと

そんな 貴重な 体験を 軽やかに受け渡してくださることに

おののき震えながら

しかし 思わず 笑いながら おうかがいした

わたくしの 薄浅い 感想や 解釈や

鼻くそみたいな 比喩で 歪曲してしまうのは失礼すぎる

受け渡し伝えるときに ついついさしはさんでしまう「余計なもの」を 省きたくて

いただいたことばは なるべく そのまんま かぎかっこ「」で お伝えしたい

「話上手なわけじゃねぇんだげんとも」と 照れながら

しかし「言わねぇと わかんねぇことだから 今もずっと続いてること わかってもらいでぇがら」と しんみりしたかと思うと

「んで マイク持つと 五~六時間は とまんねえで 喋っつまうんだぁ」と 笑う

震災後 すぐに 浪江 大熊 双葉からの 1200人を越える 避難してこられた方々の 受け入れ助太刀に 炊き出しをし続けた 鴫原さん

自衛隊の方々も たくさん来てくれた と心強い思いでおられた

しかし 15日になって 飯舘村の 放射能汚染を 知らされ 愕然とする

「知らずに 炊き出しして 内部被爆したんだべな させてしまったんだな…て 悔やんでも悔やみきれねぇがった」

「あんなにいた自衛隊の人たちも すぐにいねぐなっつまった…代わりに 防護服の人らが 来たのさ」

避難所は すぐさま閉鎖され 避難してきた人たちは 別のところへ

22日に 全村避難となった 飯舘村は

遅れをとったために すぐに 避難所に 入ることができず

まず 250名が 財務相の建物に 避難できた…とか

馬と牛を 育てる農家であった 鴫原さんの 共に暮らした 牛たちは

「手足をもがれる思い」で 手放した…と

しばし 言い淀む 鴫原さん

「『マスクしないでも 大丈夫』なんつって 安部…来たけど 冗談じゃねぇのさ。大丈夫だの コントロールできてんのいうなら 放射能あっとごで 会議してから物言えっつうの。埋め立てに使えるっつうなら 霞ヶ関さ 使えばいいのさ 汚染土」

笑いながら しかし 静かな怒りがにじむ

「もとに戻らねぇ 放射能なくならないとこにいて 忘れたいけど忘れらんねぇならば 引き受けて生きていくしかねぇのさ」

環境省が フレコンバッグの処理施設や 再生事業を始める

ハウスのなかでの 飼料植物を育てはじめているのは
「見せかけでしかねぇ ままごとみでえなもんだ」

「土のことに関しての エキスパート農水省でねくて 環境省がやってるのが 何より 環境が駄目なまんまっつうごどなのさ」

汚染土を 深く埋めた上に 防護シートで 塞いで 汚染されていない土を被せて 農業する試みには 国内外からの 非難が 集まっている

「その事に 何で賛成したんだって言われても 賛成しねぇと 他の支援しねぇぞっつう 取引みたいな 脅しみたいなやり取りはあるんだ。苦渋の選択なんだ。たくさんの 判子ついたあとに こっつさ 伝えられるだけだがら 市井のものの意見なんて いちいち聞いてらんねぇのさ」

「批判して反対すんのは 楽だげんとも んでは 反対する人らは たくさんあってなぐなんねぇ 汚染土を どうすっか 具体的に なんかできんのかっつうの…誰かが引き受けなくてなんねぇのさ…どうやったら助けてもらえるか 考えながら 反対したり 受け入れたりしてんだ 俺たちは」

被災した身の上にさえ 批判や非難が ふりかかっておられるとは

かといって そんな声に 怒りをぶつけるつもりはない

「『までい』つうのは 丁寧にだけでなぐ、相手のこと ちょこっとでもいいから 思いやるのさ。国のやり方に対してもさ」と

取引のようなことを 言ってくる 国に対しても までいに 向き合っておられる

「震災後 後悔しない生き方とか 生き甲斐について 考えるようになったんだ。今まで育ててくれた父ちゃん母ちゃんありがとう て 感謝して 思いやりとか ありがとう つう 感謝の心をもっていかねばな」

「現場に来て 見てもらいたい 楽しんでもらいたい 」と 願っている

まだ戻れない 戻らない それぞれバラバラに 暮らしておられる 長泥地区の人たちは 0歳から 九十代まで

飯坂温泉などで 定期総会をひらきながら

またいつか ふるさとに 戻れることを 夢見ている

「解体したり よけた草とか 燃やさんねぇんだげんとも 気休めの マスクしながら 片付け行ったりしてるんだ」

これが 八年経った今

それでも 前を

希望の光へと 眼差しを向けて 暮らしておられる

「今まで 俺が どっかで話すっとしても 出て来ねがった かあちゃん…今日はじめて 来てくれたんだ」と

照れながら しかし うれしそうに お連れ合いを紹介なさった

「ほんと 感謝してる ありがでぇ…」と しみじみと お しゃった

受け取り 活かして 生きている

「までい」なる ありかたを みせていただきましたる

覚悟

2019 年 6 月 30 日 日曜日

まつしたさんとしぎはらさんあの日からの主な動き避難状況

もう一週間も経ってしまった

飯舘村に 暮らしておられる方々に お話をうかがったこと

ことばは 軽やかに朗らかに和やかに 伝えられたものの

改めて その 重みを

今もまだある ただならぬ 大きさを 思って

薄浅く軽々しく 伝えられない気もして

でも これは 受け取ったものが つたえてゆかねばならぬことでもあるな と 気を取り直して思う

はじめに お話しくださったのは

村役場 総務課の まつしたさん

震災当日 地震の被害は比較的 軽微だったものの

災害対策本部を設置し

浪江 大熊 双葉からの 津波 原発被災者の 受け入れに 奔走なさっていたそう

しかし 震災の 三日後 モニタリングポストを 設置したのち

4号機壁一部破損

モニタリングポストが 44.7μsv記録

すぐさま 避難受け入れの人たちを 他所へと 避難していただく手筈…

その時 お連れ合いの方が 妊娠三ヶ月だったとのこと

その数字が明るみに出るまで 何の情報も 入ってこなかったことが 悔しい悲しいいってられぬほどの てんてこまい

3月中に 希望者避難だったものが

4月には 全村避難に指定されたものの

ご自身が 避難なさったのは 8月のお盆の頃だそう

今でも 復興も復旧も 完了などしていない

とても分かりやすい資料を作ってくださって

大忙しの 合間をぬっての 駆け足だけれど ちゃんと ていねいにわかりやすい まさに「までい」な おはなしでありました

ここでみんなと よりよくくらしいゆくために これからも 働き続ける 信念と 覚悟

受けとりましたる

わずかでも 肌身で感じる

2019 年 6 月 28 日 金曜日

花花が しだれる光が いい感じ放射性物質の検査の機械手拭い買いました座りたくなるけどこの日は我慢親と子の 愛情とか

原発事故後 八年目の福島を体験する みっちり 学びツアー24日(月)

清水修二さんの お話を聞きながら

バスは ほぼ予定通り 飯舘村の道の駅「までい館」に 到着

までい…とは 飯舘村の 政策で だいぶ 広まった気がする…福島~宮城辺りの言葉

村の 自治体としての 政策目標(飯舘村第五次総合振興計画スローガン平成17~26年)を 横文字にすると

年配の方々には 馴染みなくて親しんでもらえないから…ということから

馴染みのある言葉ってなんだろう?と 考えて 行き当たった「までい」

そこから「までいライフ」というのが できたそうな

「までい」は 両手とか左右揃った手という意味の「真手」が 語源となっているらしい

「丁寧に」「大切に」「じっっくりと」「心を込めて」「手間隙惜しまず」という意味合いで用いられる

粗雑な わたくしも よく じいちゃんばあちゃんに「もつっと までぇに やらぃん(もう少し 丁寧に やりなさい)」と たしなめられてたっけな

飯舘村と その周辺の 魅力的を 気持ちよく 紹介する施設

豊かな森林資源の恩恵 林業も盛んな 飯舘村ならでは を 表すために

温もりのある木の良さと 光を取り入れ

特殊な技術で 設えられた 垂れる花花…うつくしや

地場産の 新鮮お野菜も ありあり

んでもって まるっと 放射性物質の検査のできる機械もあり(無料)

清水修二さん さっそく 購入して 量っておられた様子(タイムリミットにて のちほど 別物の データを おしえてくださった)

のちほど土産物をゆっくり買う時間はない ということで

みなさん あれやこれやと 買い込んでおられた…つられて買っちゃった…でも 帰りの電車賃のこととか かろうじて 思い出して そこそこにしといた

屋外の 放射線量測定パネルには 0.16μsv

周辺は 徹底した 除染が行われているから そんなもんで 済んでるのだ

これ 角田市の 台山公園とかと 一緒だな(放射線情報サイト参照)

ロータリーのとこにある独特の味のある 彫刻

後に 訪れた 飯舘村地域交流センターにもあって

ここいらゆかりの作家さんかと思いきや

そういうわけではなく

震災きっかけだか

ご縁で 多数の 製作 寄贈なさった 彫刻家 重岡建治氏のものだそう

自然の 豊かさや 人との ふれあい 温もりの作品…じわっと くる

ゆっくり ソフトクリームなめながら そこに座っていたかったものの

あいにくの 雨&次への学びのための移動

そそくさと また バスに乗り込んだのでした

届く

2019 年 6 月 27 日 木曜日

ゆっくり読もう先日の 原発事故後 八年目の福島 学習ツアー

後半の取りまとめも ままならぬまんま

どたばたと 日々を 越えることに いっぱいいっぱいに なりがちなのですが

あのとき お話をうかがった 飯舘村 長泥地区の 区長 鴫原さんの インタビューも載ってる ご本『もどれない故郷 ながどろ 飯舘村帰還困難区域の記憶』 長泥記録誌編集委員会 編(芙蓉書房出版)届きまして

あとでまた じっくり 読んだり 振り返って 伝えたりせねば と 思う

また どたばた いってきます